「コンピュータ対人間」の行く末と人間疎外

IT法コラム

 コンピュータ・チェスの世界では、既に10年前、IBMのディープブルーが当時世界チャンピオンのカスパロフ氏を打ち破り(盤外戦の故との話もありますが)、コンピュータ将棋でも、先日、米長元名人(現役は引退されていますが)に勝利しました。難しいと言われているコンピュータ囲碁でも、並みのアマチュアでは敵わないレベルにまで、格段の進歩を示しているようです。

 こうした状況は、「コンピュータ対人間」とか「機械対人間」という図式で語られがちです。しかし、機械が勝手にチェスや将棋を始めるわけもなく、その背後には創意工夫と苦心惨憺の末にゲーム・システムを創り上げた人間がいます。実際、最近の将棋や囲碁での進歩の裏には、新しいアルゴリズム上の応用があったと言いますし、ハード面でも並列処理の工夫が機械の利点を引き出しています。図式化して言うなら、「エンジニア対棋士」というところでしょう。
 さて、棋士よりコンピュータの方が強くなってしまった場合、ゲームの運命はどうなるのか、とは昔から(今も)問われる疑問です。チェスの場合、コンピュータに太刀打ちできなくなってからも何ら廃れることはなく、むしろ負けたカスパロフ氏自身が、棋士がコンピュータを参考にしながら指すという「アドバンスト・チェス」を主導し、より質の高いゲームを実現するという成果を挙げているようです。西洋式の合理的な割り切りとも言えますが、生身の人間の居場所が次第に狭められていく、ある不気味さを感じさせないわけではありません。少なくとも、棋士が命懸けで取り組んだ「棋理の追求」が(ここでも)コンピュータ経由になってしまうことに、味気なさを感じる向きはあるでしょう。
 法律の分野では、エキスパート・システムが一時期盛んに研究されていました。判決予測というようなものにはほど遠く、特定法令の特定条項への適用関係を推理するというレベルのものですが、その後さほどの進展はないようです。恐らく、ゲームよりも、自動翻訳よりも、難しく時間がかかるでしょうが、生身の裁判官が判断するよりも間違いがないシステムを作ることは、不可能ではないでしょう。ただ、それが客観的にいくら正しくても、それを使おうした途端、あの不気味さが前面に出てきます。それは、本当に正しいのかという検証不能に対する疑念であり、人間が背後に退いてしまったブラックボックスに人間の運命の(ほんのわずかな一端であれ)委ねることへの違和感でしょう。