揺れ動く「真意」と契約

IT法コラム

 ビジネスの土台には、契約があります。法的に言えば、契約とは「当事者の意思表示の合致」であり、その意思は真意でなければならないとして、その正当性が担保されています。ただ、それぞれの真意ではあっても、消費者契約に典型的にみられるように、公平とは言えない場合が出てきます。これは、立場の強弱や持っている情報量に違いがあるためですが、それだけではありません。

 伊藤整の「火の鳥」という小説に、映画出演に気の進まない新劇女優である主人公が、目の前で出演を口説き落とそうとしている映画監督を評して独白する、次のような件があります。「ちょっとでも隙を見せたら相手を料理して自分の仕事をまとめてしまうという、仕事師の欲望を恥ずかしげもなく露出していた」。いかにもこの作者らしい、対象を容赦なく抉るような描写ですが、主人公は、想像上の対話の中で独りでに「料理」されながら、結局のところ映画出演を承諾し、そして後からこれを後悔します。
 あまり言われることはありませんが、契約というのは、揺れ動く「真意」の一瞬のピークを捉えて、これを固定化する技術でもあるということです。固定化された契約内容は、法的強制力をもって当事者を拘束しますから、取引関係は安定します。また、取引しないことをわざわざ契約で固定化したりはしませんから、成立しそうな取引は、それなりの条件交渉を経ながらも結局は成立し、取引は促進されます。しかし、「真意」が上のような程度のものであったなら、これで安定が得られるはずもなく、これで得られる促進を喜べるはずもなく、却ってトラブルの種になるでしょう。
 企業間の取引は、気難しい女優の映画出演と違って、冷静な経済計算に基づくことが期待されています。その計算を間違いないものとするため、取締役会等で会社の真意を慎重に確定させるプロセスも用意されています。しかし、それでもなお、何を契約したかも分からない契約をしてしまって、後からこれを後悔する事例が数多く見られます。情報システム関係ではなおさらですが、これはベンダの側にもユーザの側にも起こり得ることです。