「安全」と「安心」

IT法コラム

 「安全」かも知れないが「安心」ではない、というのはここ数年、しばしば聞かれる言葉です。本来の意味は、「安全」は客観的な意味合い、「安心」は主観的な意味合いということですが、メディアに現れるような場合は、(意識しているかどうは別にして)別の意味が込められているようです。「安心」ではないとは、客観的には「安全」だが漠然とした不安が残るということではなく、原理上は「安全」であるはずのシステムが額面通りに運用されていないのではないかという不信です。

 例えば、公開鍵暗号に基づいた暗号化は、原理としては「安全」ですが、秘密鍵の管理が甘ければ暗号化は意味をなしません。これを応用したブロックチェーンに基づく暗号資産も、原理としては「安全」ですが、取引所や法制度といったインフラが整わなければ、通貨のごとくに「安心」して利用することはできません。同様に、汚染物質の人体への影響が科学的に明らかになっていても、汚染状況の測定や報告が信用できなければ「安心」はできません。
 暗号の例からお分かりのとおり、この問題は情報セキュリティの世界では整理済みで、原理上の問題は技術的セキュリティ、運用上の問題は人的セキュリティないし組織的セキュリティにほぼ対応します(全てを備えているはずの認証取得企業のセキュリティが、実のところ建前ばかりの「ザル」状態であるというのにより近いとも言えますが)。いずれにせよ、上の例に述べたような状況では、「安心」どころか「安全」とすら評価されません。
 「安心」を脅かす不安の種は、「安全」の基礎となる原理以外のところ、多くはそのシステムを取り巻く人や組織に潜んでいます。そうだとすれば、「安心」は受け手の側の問題ではなく「安全」が保障されるべきシステムの側の問題であり、「安全」のスペックを引き上げて「安心」を穴埋めすることはできず、「安心」は説明や説得だけで得られるものではない、ということになります。